2006年12月21日

プレセ-ピオの羊の群れ

 毎年、街のクリスマスの飾り付けが始まるのが早まるような気がする。早いところで11月の木の葉がすっかり落ちた頃、1年のうちいちばんモノトーンともいえる時期には、路地にイルミネーションが灯され人々の気持ちを駆り立てる。

トレントも近年恒例になったメルカティーノ・ディ・ナタ-レ(クリスマス小市場)が始まる11月最後の週末頃からにわかに活気づいてくる。イタリアアルプス地方と北ヨーロッパ文化とが交わるこの地方のメルカティーノが、クリスマスシーズンの雰囲気をいっそう魅惑的にするのだ。

我が家でも、毎年12月中旬にはモミの木を買い飾り付け、その脇になによりも伝統的習慣に従ってプレセ-ピオを置く。プレセーピオを飾るのはエピファニアまでのわずかな期間であるが、このジェズ・クリストが生まれたシーンを再現したミニチュアを、1年しまっておいた箱の中からひとつひとつを取りだす時から、平穏で寛大な気持ちがどこかに宿るような気にさえになってくるから不思議だ。

今でも大切に保管してある山小屋は、グレッグの幼少時代の父親との共同作業の傑作で、小枝を集めてひとつひとつ糊付けしてあり、煙突も窓もあり、屋根には風で飛ばされないための石までが整列されて置かれている。窓には花柄の絵の飾りが施されたよろい戸がついていて、ガラスもはめ込まれている。石も緑の苔、赤い花の彩りも鮮やかな絵の具で色つけされていて、トレンティーノの山のどこにいっても見かけるような家を小さくした風の凝った造り、いかにも丁寧に作ってある。

カンティーナにしまっておいた箱の中には、3年前に93歳で亡くなったノンナ・フィオリ-ナの形見の馬小屋とマリアやジュゼッペもあり、この時期にはノンナのこともあらためて思い出す。

森の苔を敷いた台を作り、まず街の入り口を示す門をおく。そして順に、道路や風景をつくっていく。箱のなかから馬小屋やシュロの木、羊飼いや仕事の合間に一休みする農民、笛を吹く人など、それから一匹一匹その顔つきや動作の異なる羊が、手のひらに入るくらいの小さなサイズからやや大きめのものまで、箱のなかから思いがけずでてくる、そしてでてくること。

トレントに住み始めてから、いつか始めてほんものの羊の群れを見たことがあった。ちょうど通りかかった山間の村祭りで、小さく囲った檻のなかに羊を放し飼いにしていたのだった。囲いのなかでは、最初の羊のあとに他の数匹の羊が、後ろの羊たちもまた前の羊たちに、そのまた後ろもといった具合に、前の羊たちのお尻か足もとを続く羊たちがついていき、さらに少し横に広がり途切れることなく、えんえんぐるぐる回っていた。この群れがまるで大きな綿の塊のようにも見えたのだった。

羊の習性らしい、ちょっと迷いながら他と一緒に指導者の後を突いていく姿などはなんだか人間とそっくりで、迷える子羊たちを誘導する『羊飼い』は、精神の司牧者の意味でも使われているパスト-レ(羊飼い)であり、その比喩がとても的を得ていることに、思わず感心したことを憶えている。

この群れをますます思い出しながら、馬小屋の前にマリアとジュゼッペ、そのあいだに誕生したばかりのキリストを置く。この誕生を聞いて祝いにやってきた羊飼いと犬や、彼らに迷わずついていく数匹の羊を置き、やや大型のうしろに小型をおく。(これも習性だろうか)

少し遅れ気味の大型の羊は顔を少し上げて遠方を見て自分の行き先を確かめている様子。少し群れから外れてしまって困った様子の子羊や、他の羊のあとを迷わずついていく羊もいる。そして馬小屋の前はお祝いに駆けつけた人々で賑わっているというふうだ。

プレセ-ピオを飾る作業はグレッグの幼少時代の家族の行事で、父と子の共通の大切な思い出のひとつらしい。当時は家の小部屋全部を使って、満天の星空の壁紙を貼り、輝くほうき星をひとつ、そして大掛かりな電気の装置を設計して、夕暮れから街に灯る明かりもつけていたとか。その頃のことを満足そうな顔つきで話すのを、聞くのがなぜか私は好きなのだ。

今は、小さな羊の群れのあるプレセ-ピオを飾ることが、私と彼の年末の習慣になっている。

〈追記〉
さて、2006年残すところわずかになりました。
長らくご無沙汰している皆様に、それからいつもお世話になっている方々にも、この場を借りて感謝を込めて年末のご挨拶を申し上げます。
至福な新年を迎えますように。

2006年12月7日

Volver-Tornare

2005年スペイン映画。監督:ペドロ・アルモドヴァール(注:伊語読み)

ペネロペクルス演ずる主人公が妹と娘とともに、母親の墓参りの帰りに、故郷の年老いたひとり暮しの叔母を尋ねるところからストーリーが始まる。風車のある長い道のりを車で走るからスペインは広いことと、そこが風の強い町であることがうかがえる。

彼女は娘と愛人と暮しているが、愛人は今日失業したばかり、それほど裕福でない様子だが、とりまく人々とともに、日々を十二分に暮している。
日常の突発的な出来事を通して、近所に住む友人たちや、妹、故郷の隣人、母親と自分の娘との密接な優しい関係が描かれている。

この奇妙な出来事に関して、どんな角度からも誰も非難していない人間関係がとても面白い。前回みた同監督の『Tutto su mia madre』(邦:オールアバウトマイマザー)の時も感じたが、スペインは人々の共存距離がイタリアに比べるとまだ数センチ近い、という感じ。心打たれるくらい。

映画の中で、ペネロぺクルスがアコースティックギターの伴奏で歌う曲がとても良い。切ないけれど、あたたかく、キューンときます。

しかしぺネロぺクルスという女優は不思議。(イタリア人の発音では、ぺネロッぺクルッツという風に聞こえるんですが。)

彼女の出演したイタリア映画『Non ti muovere』(2004年)は本当に泣けてしまう映画で、それも彼女が演ずる移民のアルバニア人が、それはそれは見事にひどい化粧と洋服や身につけているもののセンス、ハイヒールを履いて歩く後ろ姿が気の毒としか言いようがなく、身なりも運命もとてもかわいそうだったのが印象的だった。映画の内容ももちろんだったが、彼女が上手すぎてイタリア人の友人たちもこぞって泣いた、らしい。

いろいろ観ているわけではないのけれど、この方って『ごく普通で、けなげに力強く生きている、人の良い女性』を演じたら、実生活もこの傾向があるのではないか、と信じてしまう力がある。

2006年12月4日

dattero-ナツメヤシの実

ここではダッテロと呼んでいますが、辞書でひくとナツメヤシの実のことだそうな。ちなみに、wikipedia日本語版にはデーツと載ってます。

イタリアに入ってくるのはチュニジアやモロッコ産がほとんどだそうですが、ある果物屋でイスラエル産のナツメヤシを見つけたので買ってみました。

ちなみに、イスラエル産というのが最高級品といわれているそうです。一般的にイスラエル人(ユダヤ人)は植物の耕作に秀でている民族と考えられていて、それは水が貴重だった時代(言ってみればそれは現代も変わらないかもしれないが)に、作物の生育に必要な水分を供給する灌漑法を最初にとり入れたのはこの民族という理由らしい。

実は大きめでたっぷり、とっても甘く、ひとつで充分満足。乾燥したダッテロを食べたのですが、これはどういった種類のデザートにも匹敵する美味しさかも。

PS.ちなみに接写は難しいですね、焦点があう写真がなかなか撮れない。でも載せておきます。

2006年11月21日

フランス語自習提案

前回フランス語コースに通った仲間が、また集まることになった。

トレンティーノでは2000年から2006年まで、15歳から64歳の県民対象に、外国語とコンピューターを学ぶバウチャー制度が企画されて、以来申し込みが殺到したようだ。このバウチャーは、多くの私立学校でプログラムされている様々なコースから、気軽に自分の興味を持つ学習内容を選び低額で学ぶことが出来るのだが、さらに、授業の出席率70パーセントを確保することによって登録料が返金されるというシステムで、学べるうえに最終的に無料で受講出来る、ということになる。

私立の語学教室の授業料は、思いがけず高額で、現代生活において欠かせなくなってきているにも拘らず、このふたつの分野の知識を得る機会は、だんだん少なくなるらしい。

県のこの制度のおかげで昨年秋は、私が申し込んだ語学学校のフランス語基礎講座も催行人員に達したのだと思うが、フランス語を習う機会に恵まれた。

クラスの12人のうちひとりが途中で事情があって抜けたが、残りの11人は、コースが終った後に何回か皆でピッツァを食べに行くくらい仲良くなった。なかには会話には問題がほとんどないくらい上達した仲間もいたし、私のように基礎のまま、終了したことにまず満足、とりあえず聞くための耳がちょっと開いた程度の場合もある。

イタリア人の優しいところは、私のようにまごついている外人にも手助けこそすれ、決して不愉快な態度を示さないところである。(一回目の授業の時は皆が怖かったが)おかげで私自身も、イタリア人と同様にはフランス語が聞けないことや、発音出来ないことを、あまり気にしないようになった。もちろん自習はできるだけしていき、あまり足をひっぱらないための努力はしたつもりだ。

その仲間のひとりが、なかなか上達がままならない外人もいることを承知で、同じグループでフランス語の勉強を続けよう、と言い出した。

そこで、またすぐ集まるのがイタリア人たちらしく、違うコースを始めるので時間がないことを理由にひとりは抜け、学生のふたりは年齢層が自分たちとそぐわないと考えたのか脱会、それでも8人が残る。

一方で私立学校で授業を持つ講師に、学校とは別に私的に教えることのできる時間と授業料を交渉、そして参加希望者全員の日程をまとめるために、私のところにも連絡メールがせっせと到着しはじめたが、なかなか都合が合わなかったようだ。 まず先生の予定つかないというのが一番の理由だったが、仕事を持つ人達だから予定も様々だったらしい。

そこへ行くと私など『どうやら私が一番融通がつけやすい状況にあるらしいので、皆の予定を確認後、連絡してくれれば結構です、夜あまり遅くならないという条件で曜日は問わず』とか返事して連絡待ちすること数日。

さすがにしびれをきらしたとみえ、『確実な返事が来るまで家で自習ってのはどう?どうせ皆教科書持ってるんだからさ』とこの主が自宅を提供してくれることになったのだ。

全員がせっかく足をつっこんだフランス語をそのままにしておきたくないから、できるだけ早い時期に勉強を再開しようと、曜日と時間を都合をつけ、先生抜きで自習でもとりあえずいいのではないかと、話しがまとまってしまった。 私としても、フランス語の勉強をフランス語で習うより、イタリア語の解説があったほうがわかりやすいからありがたい。

『自習提案』はさっさと話しがまとまり、一回目は時間が少し遅かったので、つまめるものを各自で持ちこみする、ということであっという間にメールが回って、全員がOKの返事を返したらしい。

いざ集まると、もっとざっくばらんに話しが進み、映画を皆で見るなら家のキッチンに8人は座れるよ、とか場所探しも教師が職業のひとりが手配する役目を請け負うとか、集合するにあたって軽い夕飯の手配だとか、自習をするためにそれぞれの提案があって、また次の予定が決まった。

ひとりで自習するよりも、誰かと一緒で教えたり教えられたりしたほうが、それに勉強する目的を持ってある場所に出掛けたほうがより集中し、楽しみになるに違いない。どうせなら、楽しい方が学ぶことも効果的に決まってる。 少しかじったフランス語も、どうやら継続できそうな様子なのだ。

それにしても少し大変でも先に立ってまとめてくれる誰かがいて、それにすぐ賛同するノリのよい仲間に恵まれたことは幸運だった。人任せにせずに、それぞれがそれぞれの方法で参加する意識を持っている、というイタリア人的なところも、また私が賛同するところである。

日本人と日本文化―司馬遼太郎

司馬遼太郎とドナルド・キ-ンの対談集。
本当に『歴史』ものには弱いので、司馬遼太郎の本も実はほとんど読んでないけれど、この人の日本文化に対する視点がよくわかって、多くの読者を引きつける理由がわかるような気がする。

しかし、司馬遼太郎という作家は随分本を刊行しているけれど、これだけの量の本をどう書いていたのかしらね、と私など単純に感動するけれど、精力的で長生き(1923‐1996)した人だったのですね。相当な知識もありながら、日本人や日本文化についての興味と疑問をさらに持ち続ける『能力』と『意欲』はスゴイ。

ドナルド・キ-ンという人は文化功労者だそうだ。この対談は日本語で行われたそうだが、とても日本語が美しく、論理的でわかりやすい。当然後に構成が行われたかもしれないが、もともと英語(外国語)を母国語とする人が日本語で話すとき、こんな風にきちんと構築された文章で話すひとが多いから、話し言葉をかなり忠実に文字にしたのではないだろうか、となると私(たち日本人)は相当話しことばを勉強しないといけない、と強く反省。

どの話題も面白くて、日常の小さい疑問をちょっと解決の方向に導いてくれる。もちろん方向であって、それ以上は自分で勉強する必要がある。

目次は、
<第1章> 日本文化の誕生
<第2章> 空海と一休
<第3章> 金の世界・銀の世界
<第4章> 日本人の戦争観
<第5章> 日本人のモラル
<第6章> 日本にきた外国人
<第7章> 続・日本人のモラル
<第8章> 江戸の文化

文庫本の初版は1984年4月、中央公論新社より。

2006年11月20日

男たちへ-塩野七生

本棚を整理していたら、こんな懐かしい文庫本がでてきた。初出誌『花椿』1983年6月号から1988年1月号、単行本1989年1月、文藝春秋刊。 私が買ったのは文庫本になってからで、文庫本は1993年2月が第一刷となっている。

いつも読んだ本が気に入ると、どんな人がこういう文章を書くのだろう、と興味を持つから、そんな時に本屋で見つけた一冊だったのだと思う。

そして、これに書かれている内容から受ける『塩野七生』という人のことをすっかり嫌いになり、暫くはこの作家の書く"有名な"歴史小説もまったく読みたいと思わなかったほど、当時アグレッシブな印象の残ったエッセイ集だった。

整理している途中でもう一度ぱらぱらとページをめくると、当時嫌煙していた事柄なのに、なるほど言っていることは良くわかる、と同調することもある、全部じゃないが。

イタリアで生活する間に、きっとそれだけ私自身も頑なになってきたこともあるだろう。以前攻撃的過ぎるとも思えた独特の切り口も、きっとイタリア語やイタリア生活に揉まれた結果に違いないから言える、ということもあると勝手に納得。

いとこ曰く『お気に入りの女性作家のひとり』だそうだ。そうだろう、とても論理的で個性的、そして斬新だ(何年も経過した今読んでも)と思う。

ただし、私自身は歴史は小説で読むより、史料を読む方がずっと想像力を駆りたてるので、すぐに気が変わってこの方の歴史小説を読もうということにならない。機会があれば読むかもしれないが。

そうそう、今では何でもないことだろうが、随分前から『白黒はっきりしたスタンス』を持っていた日本人女性なのだな、とちょっと感心した。写真などで見る限りでは、同年代(1937年生)のイタリア女性たちとちゃんと肩が並ぶくらい "意志が強そうで綺麗" なので、さらに感心してしまった。

2006年11月14日

ポレンタ


冬に近づくと、少し身体が温まる料理が恋しくなるのはどこでも同じ。

『ポレンタ』は北イタリア地方の主食のひとつとして有名になりつつあるが、北イタリアといっても地方さまざまでここトレンティーノでは、とうもろこしの黄色い粉に水を足し、ひとつまみの塩を加え、火にかけて木のしゃもじでかき混ぜながら3~40分ほど煮る(練る)、というのが一般的。

ポレンタ専用のパイオーロという銅製の鍋は、どうやらじっくり煮こむのに適しているらしく、水が沸騰し、粉がどろどろしてくると同時に、家中にもろこしの少し焦げ付いたような香りが漂いはじめて、待っているだけでは気が済まなくなり、つい作るのを手伝いたくなってくる。底のほうから上に持ち上げるように、大きめのしゃもじで回しながら練り上げるのだ。

3~40分ほど火にかけるので、家のなかに香りも広がるが、室内も温まる、そして練るには力もいるから身体も温まる。おまけに、最後の仕上げにと入れておいたウサギの肉のローストなんかを高温のオーブンからとりだすという具合なので、冬の寒さが飛ぶくらい、身も気持ちもあったかくなる冬の時期のポレンタである。

2006年11月9日

いまなんじですか

短期間だが日本語を教えることになってから、事前に簡単な会話のプリントを作っている。最近のこと、『いま なんじ ですか』とワードを打ち始めて、自分がイタリア語を勉強し始めたころのことを思いだす。

イタリア語の場合、時に未来の出来事でも、そのことが確実である場合現在形の動詞を使うことが多い。逆に動詞の未来形は、もちろん単に話している時間を基準にして、その後の動作を表すという文法上の自制の一致もあるが、その他に、仮定、可能性など、不確実なことを意味する場合もある。この不確かさを匂わせる場合に、あえて未来形を使うっていう手があるのだ。

時間を言う時に、およそとかおそらくというニアンスで使う未来形を使うことがある。

当時『今何時?』という時間を他人に聞く必要性をどうしても想像なかったが、現実にも見知らぬ人に時間を聞かれることがやたら多かった。自分も聞かれたし、『今何時くらいかしら』『おそらく○時頃でしょう』という会話を街中でよく耳にした。そしてやはり『私の時計では』とか『おそらく』という不確かな答え方をしている人が多かったように思う。

日本では至るところで時計が存在し、駅でもお茶を飲む喫茶店でも学校でも、街中公共の至るところに『時計』があったから、見知らぬ人に今何時と聞く必要がまずなかった。そして『目にする時計は正確に時を刻む』、そういう生活に慣れ、比較的時間通りに予定通りに動くということも当たり前だった。

イタリアに暮し始めたころは街のなかに時計をほとんど見かけなかったし、全員が自分で確認しながら、時間正確に行動しているわけではないらしかった。今ならきっと、イタリア人のほぼ全員が持っている携帯電話をちらりと見て、必要があれば時間くらい簡単に知ることができるだろうが。

『大学時間』という言葉があって、これは教授が15分ずれて授業を始まることからきた言葉らしい。だから8時という約束は8時15分と解釈、(それでも私は8時頃行くが)イタリア人との付き合いのなかで、15分の遅刻は遅刻にならない、という観念が出来上がった。

イタリア人全般的に、然程時間の正確さを追求し合わない国民性なのだろうと思っている。(注:でもここトレントの人々は以外と時間に忠実。)

さて日本語を教える話にもどるが、『いま何時?』という質問と答えは、これはもちろん自分で問うフレーズに違いないが、いったい日本の生活で交わされる会話の一例だろうか、これが私のなかに芽生えた疑問。

それからは、それではどんな場面で人と会話するのか?と考え始めて、ショッピング?駅?レストラン?電話?ときたところで、ひょっとすると、現代の日本の生活ではどの場所においても人と会話する必要があまりない、かもしれないという不安が沸く。

ほとんどの場所で機械化が進み、人の代わりに機械を相手にした方が事はよりスムーズに運ぶといった生活が成り立っているような感じだ。

買い物ために行く『大型(大衆)デパート』ではおよそ何でも揃っていて、必要な大概のものは手に入るだろう。ほとんどの売り場では自分で見て、触って、時には試着して、自分で決めて、会計に持っていき、支払うというシステムがうまく回転している。そこでは、ありとあらゆる商品のなかから自由に選択できるので、わざわざ定員に他の違うものを出してきてもらったり、自分が探しているものがどんなものかを定員に説明する必要があまりなく用が足りる。

食品もスーパーが多いだろうから、何の野菜をどのくらい下さいという手間がなく、既にパッケージされて売られているものを籠にいれ、会計に並ぶだけ。

駅で買う切符は、ほとんどが機械で操作する、あるいは操作できる。電話?いまや携帯のメールがほとんど。ファーストフードの店も多いから、会話ができなくてもメニューの絵を示したりすれば、何か食べられる、といったような。

果たして外国人が日本の大都市に行って、日本語で会話できなければ困る場面があるのだろうか、と考えこんでしまった。イタリア生活のように、言葉がわからず窓口で切符が買えないとか、八百屋で何エットのほうれん草とか、何のチーズをどのくらいと大声で言う必要がないだろう、日本では。

イタリアは『セルフサービス』で出来ることが多くなってきた昨今でも、まだ、"人を介さなければ事が運ばない"場面が多いから、イタリア語がわかっていたほうが"絶対"生活がしやすいのだ。 だから一瞬、こんな会話あるのか、と思うようなことも覚えておくにこしたことがない。

それからもうひとつ、ニュースのアナウンサー同士が会話しているような、丁寧な『です、ます調』の言葉使いが、現代の日常生活でよく話されているのだろうかと、私のなかにさらにでてくる疑問である。
教えている彼女たちと同世代の日本人の間で交わされる話し言葉が、今彼女たちが習っている日本語とはかなり違うのではないか、とちょっとばかり心配だ。

2006年11月7日

気温0度

天気予報によれば、今日のトレント南部(標高185m)の気温は最低0度、最高12度だそうだ。
例年より少し早い冬がやってきたのか、それとも10月末暖かい日が続いたので気温が低いことを殊に感ずるのかもしれない。

おかげで風邪をひく。(久しぶりに)薬はあまり飲まないが、アスピリーナCだけは信用しているので、いざというときに飲んでいる。鎮痛、炎症や解熱に効くという、水に溶かして飲むビタミンCが含まれた錠剤で、コップ一杯飲むとなぜか、少しすっきりするのが不思議なくらい。

日本(あるいは東洋)では『良薬口に苦し』なんていうくらいで、薬は苦いものとずっと思ってきたのだが、(最近の事情は知らない、なにしろ薬は嫌いだから滅多に飲まなかった。)イタリアに来てからはまず、飲みにくい粒子の"苦い"薬にあたったことがない。

それでも調子が出ない場合、日本から持参したいわゆる『風邪薬』のほうが効力がある(気がする)ので、カプセルを2錠というのを飲みこむ。このカプセルもイタリア人にとっては、飲みこむには大きすぎると感じるほどではないかな。我慢して飲みこむなんてとてもできないうちに、中の粒子が溶け出て、"オエッ" なんてことになるに違いない。

それで水に溶かして、飲みやすくしたもの、錠剤なら小さめでのどにつまらないもの、味も甘めで飴に近いものがいいってわけだ、きっと。

途端に、日本人は忍耐強く育っているのね、と感心するのだ。
でもこちらで生活していると、それ相応に忍耐強さも薄れてくるもので、寒さや苦さに対する適応が鈍る。寒くなるとあっという間に風邪をひき、甘い薬を飲んで、大事にしているという具合だ。

2006年11月5日

遠くにいても

最近誕生日を迎えた友達に『おめでとう』を言うつもりで電話をした。昨日のことだけれど。

その当日がこちらが忙しく、それから少々日にちが過ぎてしまったので、メールをするのも間が抜けてるな、なんて思いながら、この頃国際電話も低額でかけられるようになったので、声も聞きたいついでに。

すると、『丁度、徳川美術館からの帰りで高速。それで今日観賞しながら、あなたのこと考えてたの。』というのだ。ほんと、なんという偶然。国際電話というと、要点をかいつまんで早く用件を言わなければと "お互い" いつも幾分アセリ気味になるので詳しくは聞かなかったが、『次回帰国したら、こういうところへ一緒に来れば(私も)楽しいだろう』と思ってくれたそうなのだ。

それできっと思いが通じて私は電話を入れたわけだ、ということでお互い納得。
私はようやくお祝いが言えたこともあるが、彼女が遠くに住む私のことを思ってくれていたことがわかって、とても嬉しい短い電話だった。

来年の帰国(予定)までには日本の歴史を再度見直して、心の準備をしておこうと思う。遠くにいるとなぜか、どんどん日本文化が憧れの対象になってくる。それにしても日本に住んでいたとき、見逃したことがあまりに多いことにいつも唖然とする。

2006年11月4日

電子辞書

今年帰国する際イタリア人の友人から電子辞書の購入を依頼されて以来、『ふふん電子辞書ね、どうなんでしょ?』という疑問が頭の隅にあるのだ。

近頃外国語を勉強する大抵の日本人の必需品のひとつになっているらしく、先日在伊日本人数人に会った機会にも、様々な理由で『近年イタリアへ来た』という人は皆携帯していた、なんと。 そうか、最近は重い書籍でなく、軽量な手帳型の『電子辞書』を携帯するんですね。

さて、机のうえの伊日辞典だが、ペルージャ時代には嵩張るのも苦にせず、毎日バッグに押しこみ授業に持っていき、家では宿題や予習復習で、あきもせず単語を調べまくっていたなぁ。だからその頃からちょっと傷みはじめていた。

いまでも相変わらず私には必需品で、さすがに持ち歩かないが、新しい単語や怪しいことは何度でも引いてみる。いつも近くに新しい言葉を見つけたり、関連する別のことも発見、はたまた過去に調べた形跡もあり、ひとつの単語を調べる以外にもなかなか楽しめるものなのだ。

例えば ひとつの言葉を調べる時、電子辞書はきっとその答えは確かに早く出してくれるのだ。だからスマートで、会話中でもさり気なく知らないことばが調べられ、問題は即解決。 でも私がよくやる『それ以外のこと』が同じ画面で出来ない点で、寄り道ができない感じだ。寄り道することによって、あちこち出てくる課題と関係ない事柄については、まったく無視されてしまう。

こう考えると、この軽量で小型の辞書を買わない理由が少しわかってくる。 つまり書籍の辞書より電子辞書は正確、けれどちょっとつまらなそう、と思ってしまう。
それに最近は携帯の必要性が少なくなってきたせいで、 軽量で小型であることを求めない。電子辞書に搭載されている種類の辞典類は本棚にあるし。

したがって電子辞書購入については今しばらく先にのばし、手元の辞書の破れたページの補修にとりかかることにする。

どんなものについても、買い換えには大きな理由が必要なのだが、新型の『便利なもの』については、いつも少し疑問を持つのが自分の悪い癖なのだ。

2006年11月2日

トリノの歩き方 

観光局おすすめ、一時半コース。2時間半あればコーヒーを飲みながら余裕をもって周遊できる歩き方。四季を通じて散策ができ、とくにバロック、ネオクラシック、リベルティ様式の建築や、小説の舞台になるカフェテリアなどを愛する訪問者たちに最適。
ここを歩けば『トリノに行ったことがあるかい?素晴らしい建物だらけだよ!』と言うことができる、そうだ。

1. Atrium, Piazza Solferino →2. Via Pietro Micca →3. Piazza Castello (Palazzo Madama-Piazzetta Reale-Palazzzo Reale-Cappella della Sacra Sindone-Giardini Reali- Chiesa di San Lorenzo-Biblioteca Reale, Armeria Reale , Complesso della Cavallerizza Reale-Teatro Regio)→4. Galleria dell’Industria Subalpina (Galleria Subalpina) →5. Piazza Carignano →6. Palazzo Carignano → 7. Via Po → 8. Mole Antonelliana →9.  Piazza Vittorio Veneto

2006年10月31日

トリノ(2)リンゴット

最近は事前調査をよくせずに出掛けるという癖がついているので、盛んにニュースでこの『Salone Internazionale del Gusto』を話題にしていたという程度の理由で、翌日はリンゴットへ直行。なにしろ味やワインに関するフィエラと聞いたりすると、グレッグも私もそちら側へ反応してしまう性質なのだ。

トリノ市内 もスローフード主催で26日から30日まで開催されるという『味のサロン』ムード一色になっていて、土曜日の午前から近郊は車が混雑。どうやら車を一番遠い駐車場に止めてしまい、ショッピングセンターの通路を抜け通り一度外にでて、漸く入り口に到着。

すると、長い行列ができていて、列の最後にたどり着くのも1キロはゆうにありそうだった。入場にこれほど並ぶなんてウフィッツィくらいしか見たことがない。これはオーガナイズ側の失敗じゃないの、と不愉快に思いながら、入場券売り場の様子を見にいくと、この長い列はインターネットで入場券を予約した人たち専用だった。当日券との金額の差は2ユーロ、また混雑を予想して殺到したに違いない。他にグループ用、個人用、招待者用などに6つほど窓口があり、こちらには一列に4,50人くらいづつ並んでいる。でも聞けば一時間は待っていると嘆いている。

それにしてもまったく動かないのは、窓口で当日券を買いながらインフォメーションを尋ねたり、バンコマットが作動しないなど、さまざまな理由だろう。私たちも一時間以上待っているので、文句のひとつも言いたくなる。訪問者数を予想しながら、何故購入窓口を機械化してないの、とか。

入場料は20ユーロである。ヴィニィタリ-よりやや安いけれど、有名な作品の展示されている美術館やコンサートと然程変わらない金額ですよ。

会場はもうそれは『広い』。通路にチーズ通り、オイルと加工食品通り、肉とサラミ通り、ドルチェとスピリティ通り(もちろんイタリア語で)なんていう洒落た名前をつけていて、しかも一通りに50件以上出店しているから、とても1日では回り切れないことが明らかだった。

ほかにもイタリア各州の観光業者や、世界各国レストラン(築地からも寿司屋が来ていた。本物の寿司職人だ、と感激。)、イタリア各州の地方料理をもてなすスペース、カフェ・ラヴァッツァ、パルミジャーノ・レッジャーノ、サン・ダニエッレなど、イタリア特産を強調するプロモーション、別館にエノテッカ(別料金)、アフリカ、南アメリカなどのパディリオン、自然食品パディィリオンなどなど、飲食に関するある種の独特なセンシビリティを持つ業者たちが参加していた。

しかし、イタリア人とは本当に飲食には興味がつきない人種なのだと感心する。しかもどれも不思議なものでなく、『美味なもの』で『芸術的』な感じなのである。

チーズの数の多さは知っていたが、さすがにスローフ-ドが関係しているだけに、チーズの熟成にも工夫を凝らしているものもあり、値段も聞いて驚くものが多い。


バルサミコ酢も小瓶で80ユーロといった高級品もあった。これは25年熟成のもので、『酢』とは思えないまろやかな風味。25年味を損ねずに保存する技術や手間を考えると、高額になるのも仕方がないにせよ、これを隠し味にして料理するとは、なんと贅沢なことか。

エノテッカには入場しなかったが、丁度運良くハム・サラミ類とワインの組み合わせのプロモーションの一回に参加でき、プレスの人達と混じってトスカーナの赤ワイン『モレリーノ・ディ・スカンサーノ・リセルヴァ』を試飲をすることができた。ここも結構贅沢な企画で、著名なシェフがワインに合わせておつまみ(日本風にいえば)を作るというもの。ハム類だけなく、それと合わせるパンも香草入りというシンプルに見えるが、一皿でもかなりの凝り様なのだ。

会場の3分の1も回らないうちに、気に入ったものを全て買い求められないことに気がつく。それぞれに美味しいが、特別なものすぎて、試食する機会を選ぶのに苦労するに違いない。グレッグなどは、スーツケースを持ってくるべきだったと悔やんでいたが、もし買い始めたらスーツケースにも入りきらないほど、それから値段は予想もつかない。

時には試食しながら、時には眺めるだけだったが、食べ物の名前のついた通りを歩いていると、いかに普段口にしているものがシンプルであるか、ということがよーくわかる。個人的に、普段のシンプルな食事も味付けが好みに合い、大抵のものは美味しいと満足しているが、アイデアはいくらでもあり、手間はどんな風にもかけられ、さらに工夫を凝らし創造的になるものなのだ。

午後遅い時間まで、いささか疲れて飽きてくるまで少し長居した。

それからトレントに戻る時間を考えて、かなり心残りだったが会場を出た。その日『スローナイト』というポスターも確かトリノの街中で見かけたっけ、これも残念なことに無視することに。

トリノは、中心地もほんの一部しか知ることができなかったけれど、ミラノやローマなど他の大都市とは異なる印象だった。商店街を歩く人々や、ウインドーディスプレーや、建物などから受ける印象は、進歩的なものや新しい文化を積極的にとり入れる都会といったような感じだった。

新しいものと古いものが共存している景色などは、イタリアというより、ちょっと東京やロンドンやニューヨークなんかに似た、ドライな感じを受けた。

高速を走りパダナ平野を抜け、ヴェローナまでくると、すっかり馴染みの景色が見える。そこから北方向へ約90キロにトレントがある。イタリアにはいろんな顔があるな、なんていつも思うのだ。

トリノ(1)

ニュースで『Salone Internazionale del Gusto』 (世界味のサロンとでも訳す?)がトリノで開催されていることを知って、思い立って一泊2日で出かけることにした。
今年の冬季オリンピックの開催地でもあったことと、トリノが舞台になった映画『i giorni dell’ abbandono』 ではとても美しい町だという印象だったから、一度は訪れたいとかねてから思っていた町のひとつだ。

工業が発展している町という印象で、それ以外はあまり詳しく町の歴史を知ろうと思ったことがなく、個人的な興味の対象になっていた事といったら『シンドネ』くらいだった。それも何年か前の火災が理由で修復中だったはずで、それ以外にトリノへいく特別な理由はついぞ今までなかった、なぜか。

トレントからおよそ車で4時間半。高速道路を降りると、目の前に全く想像していなかったような近代的な都会の姿が現れ、かなりわくわくし始めた。
トリノの象徴でもある、モ-レ・アントネッリア-ナを目指した。1862年に設計され、資金不足のため一度市に譲渡され1889年に漸く完成した。パリのエッフェル塔に付随するという高さ167,5mの塔で現在は映画博物館として利用されているそうだ。

車を止めて近くまで歩き、脇のインフォメーションセンターで地図を手にいれるついでに、簡単な散策のアドバイスを受ける。インフォメーションセンターの人はなかなか感じがよく、ともかくトリノは好印象。

それから徒歩で。長いポルティチが続き、古本やCDを売る出店が多く、しかも値段もトレントに比べて安価で豊富なこと。 町の中心にあたるカステッロ広場はバロック様式の正面玄関のパラッツォ・マダマ、広場の奥にパラッツォ・レア-レが見える。1865年までイタリア国王サヴォイア家の居住の殿だったところ。

おもにローマ通り、サンカルロ広場、ヴィットリオ・ヴェネト広場に続くポー通りはお洒落な店も内装も歴史を感じさせる古典的なカフェも多い。

トリノは1861年イタリア統一王国成立から1946年国民投票で共和国宣言するまでの間の、イタリアの政府の中心になった最初の町だったそうだ。

立ち並ぶ古い建物の豪華さはその王国時代の豊かさが伺え、同じ位数多い近代建築、広い道路やシンプルでモダンな照明設備は、フィアット社に代表される盛んな機械工業の発展を示す例だろう。郊外にはかつてフィアット社の従業員のために建築されたという高層のコンドミニアムが相当な数の棟が立ち並んでいる。コンドミニアムからほど近い、現在のリンゴットを含みそこに隣接するガラス貼りのショッピングセンターは、かつてのフィアット社があったところだそうだ。その敷地の広さといい、コンドミニアムの数の多さ、一時期の景気の良さの痕跡だろうな。

流行からは随分はずれているのだろうけれど、町のはずれにあり建物も今では時代遅れといった、訪問者も少ない印象を受ける自動車博物館へ寄る。F1を走ったフェラーリ(歴史的?)や、『車』が生活に出現した時代の娯楽についての記録などが展示されている。 これはグレッグの希望で入場。

中心地の観光案内所でホテルを紹介してもらう。リンゴットの時期はかなり込み合うことが予想していたたから、ほどほどの金額で会場からもほど近いホテルが確保できたことはかなり運がよかったかも。

ホテルにチェックインしてから町の散策に出かける。(普段出無精でも、なぜか旅行先ではフル回転になる私たち、とくに彼のほうが、である。)

今回のもうひとつの目的は『トリュフ』と『ボリート・ミスト』だったから、案内所、バール、店員などなどあらゆる人々にトリノで美味しいものが食べたいからどこへ行くべきか尋ねまくったのだ。 ほとんどのひとが地方料理レストランを知らず、レストラン街やカフェの多くある地域を示してくれ、とにかくそこへいけば美味しいものがあるはずということだった。

日も暮れてきたので散策のあと、その地域を目指したところ、レストランらしきものはほとんど見当たらず、(多分まだ早い時間だったのかも)あるのは、少しお洒落なモダンな感じのカフェばかりで、ブッフェ式の前菜とアペリティフを飲んでお喋りする仕事帰りの人々を多く見かける。

あらためて通りすがりのトリノに住んでいる人々に尋ねる。
漸く最後に聞いたカップルがアドバイスしてくれたのは、ポー川の向かい側にある一件の名前、安くて美味しいし、ピエモンテ料理を出すとの話だった。

すっかりピエモンテ料理が頭にこびりついた私たち、タクシーを使って迷わずそこへ行く。

名前を教えてくれたカップル(60代)いわく、今やトリノに住んでいる人達は肉料理というより、魚料理など少し軽いものを食べるのが流行りなんだそうだ。たしかに生魚を出すという、日本風にいえばイタリアンカフェもあったし、世界各国のレストランの数に劣らずヴェジタリアン専用の店もかなりめだった。

つまり紹介してくれたのレストランは、いわゆる大衆レストランで、オーナーらしき人は愛想もよく、地元の人々で賑わっているということがよくわかる客層だった。

きっとピエモンテの家庭料理だろう、アンティパストミストも牛肉のツナソースかけなど、濃い味のソースを使ったもの、イワシを是非試すように言われて来たので、イワシを注文すれば、妙な顔をされ、持ってきたのはイワシのオイル漬け、山盛りのバターで、後でこれがピエモンテ風なのかと質問すると、『オイルサーディンはパンにバターを塗って食べるのは世界共通だろう?』と言われる。んん、担当のウエイターに恵まれなかったらしい。

アンティパストがすっかりお腹にたまったせいで、プリモのフォンドュのリゾットになったらとてもつらくなった。お米の焚き具合も丁度良い具合で味も良かったし、グレッグの注文したタリアテッレも美味しかったのだが、バターたっぷりのソースだったので、セコンドの前にすかッり満腹感を味わってしまった。

確かに美味しかった。だが私たちの頭のなかは『トリュフ』と『ボリート・ミスト』のことで一杯、中心地からタクシーをとばしてここまで来たのに、『トリュフ』のトも見当たらないことに、ついでに到着したときの空腹も手伝って、最初に少しがっかりしまったのだ。

ま、いつも思うが、レストラン探しは空腹時に行わないほうがいい、絶対に冷静になれないからだ。

デザートにナシの洋酒漬けがあったようだが、オーナーには失礼だったが、それも注文せずに、お勘定をお願いした。

ホテルまではトラムを使ってみることにした。しかし中心地から駅方面に行くときもそうだったが、グレッグが行き先を確かめずに停留所に止まったトラムに乗りこむ、イタリア人特有の習性があることを知らずに後をついていってしまったので、帰りはホテルまでたどりつけるかどうかも心配になってくる。第一自分たちが一体どこにいるのかも不明だったのだから。案の定ちっともトラムは来ない。

人気のない郊外の停留所でトラムを待っていたのは私たち旅行者だけで、ようやく着いたトラムもかなり空いていたが、駅へは無事到着。そこからは乗り継ぎの停留所を探し、ほぼ迷うことなく帰宅。

夜がふけても相変わらず交通ラッシュで、行き交う人々も多い。都会です、トリノって。